#9 第7天国

 この都市での滞在も長くなり、フランス人の友人も増えてくると、彼らからよく、映画活動の地としてなぜパリを選んだのかという質問を受ける。そういうときは、即座に、パリこそは映画好きにとってのパラダイスだから、と答えることにしている。

 パリには、ルーヴル、ポンピドゥをはじめとする大小さまざまの美術館や数え切れないほどのアート・ギャラリーを歴訪する、あるいはそこでじっくりとひとつの作品の前に佇む悦びもあるし、サロン展で新進のアーティストに出会う愉しみもある。
また、新旧二つとなったオペラ座で、オペラやバレエを日本では想像できないほどの安価で観賞し、シャトレに並び立つ劇場やトロカデロにある国立劇場に、ウィリアム・フォーサイスやピナ・バウシュのダンスを観に、ラ・ヴィレットのシテ・ドゥ・ラ・ミュージックへは現代音楽を聴きにと、せっせと足を運ぶ。
さらに、歴史的モニュメントを訪れ、一つ一つ名前のついた道をそぞろ歩き、気に入ったカフェで友人たちと議論したりするのも、この街ならではの楽しみと言える。
そのほか、年代物のワインも、ボルドーやブルゴーニュへ出かけるよりはパリでのほうが手に入れやすいし、フランス中のチーズを一気に味見できてしまうのも、この首都に住めばこそである。
つまり冒頭の答えとは、パリに居続ける理由の、ほんの一面を言い当てたに過ぎない、いわばかりそめのものなのだ。
  
 とはいえ、パリが映画天国であることは否定しようのない事実である。
『ぴあ』のパリ版とも言える週刊情報誌『パリスコープ』を開くと、100以上ある映画館の一週間プログラムが載っており、話題の新作からクラシックな名画までの上映スケジュールを、辞書のようにひける仕組みになっている。時間さえあれば見たい、あるいは見たかった映画を探して見るのは、何の造作もない。見逃していて、いつかは見たいと願っていた"幻の名作"が上映されるのを知り、狂喜したこともしばしばあった。もう一生涯出会うことは出来まいと諦めていた映画を、私はこちらで幾本も見てしまった。
しかし、そのようなチャンスを逃さないためには、情報に常に敏感である必要があるわけで、『パリスコープ』の発売される水曜日には、街のあちこちでこの雑誌に首っ引きの人たちの姿をよく見かける。誰もがこうして、一週間の映画観賞計画を練るのである。
ちなみに、この手の情報誌にはもう一誌『ロフィシエル・デ・スペクタクル』があり、こちらは、『パリスコープ』よりも1フラン安い2フランで買えるせいか、フランス人には『ロフィシエル』派が多いようだ。が、日本人の間では断然『パリスコープ』が人気で、『ロフィシエル』派の日本人には、今までお目にかかったことがない。
 
 毎夕七時頃ともなると、映画館の前にはどこも上映を待つ人の列ができはじめる。TVというものが日本ほど家庭に普及していないせいなのか、またTVがあったとしても、ほとんどのプログラムがクイズや歌、討論番組と変わり映えしないからか、仕事がはねた後の宵のひとときを、TVの前でよりは映画館で過ごそうとやってくる人もいようし、デートコースとして映画館を選ぶカップルもいまだに少なくはない。
が、パリではむしろ、積極的に映画が好きな層が圧倒的に多いのである。開映を待つ人々の傾ける薀蓄を、聞くともなしに聞いていると、容易にそれと知れる。老いも若きも、女も男も、皆、映画には造詣が深い。加えるに、この街には、筋金入りのシネフィル(映画マニア)も、かなりの数存在しているようだ。
毎月、あるテーマの特集上映をするシネマテーク(グラン・ブールバールとシャイヨ―宮にある)には、特集次第で連日連夜、常連シネフィルたちが押しかける。最近では、以前ここにも書いた成瀬巳喜男特集や、MoMA所蔵の映画特集のときなどである。開場一時間前から列ができ始め、その列の前方を占める顔ぶれは常に同じだ。彼らシネフィルには、それぞれ「お気に入りの座席」というものがあり、そこを確保するためにも早く並ぶのである。(といっても、シネフィルたちの好む席はなぜか端っこのほうで、これなら、時々来る、中央付近に座るのを好む《普通の》映画ファンとは競合はしないのだが。)
ともあれ、この先もっと気温が上がってくると、手近な避暑地としてクーラーの利いた映画館を利用する人も加わるため、この街の映画産業が斜陽になるのはずっと先のことだろうと、ますます実感させられるようになる。

 さてこのように、映画ファン、ひいてはシネフィルを増殖させる一役を担っているのが、パリ市をはじめとする公の機関による数々の支援である。
パリ市は、一年のうち何度も、ほとんどの映画館で通用する料金割引のフェト(フェスティヴァル)を主催する。例えば春には、すべての上映回が25フランになる「プランタン・ドゥ・シネマ」がある。また、7月の1、2、3日は毎年「映画の日」となり、この三日間、最初の一本目を正規の料金(だいたい50フラン前後。日本円では約1000円弱)で見た人は、ニ本目から10フランで見られるパスポートを貰える。
このほか、午後6時の回は18フランとなる「18時18フラン」や、25歳以下の人は25フランで見られる「25歳25フラン」など、サービス内容もさまざまだ。このフェトの期間、映画館は映画のはしごをする人たちで溢れかえることになる。
一方、シネマテークには「アボヌモン(定期会員制度)」があり、200フランの年会費を納めると、各回の鑑賞料金は20フランとなる。ポンピドゥ、ジュ・ドゥ・ポームなどの美術館の場合は、200フラン程度の年会費を払えば、美術展だけでなくすべての映画上映も見放題となる。シネフィルたちは例外なくこれらの制度を利用しているし、日本からの短期留学生の中にも、入会して映画を見つづけている人が相当数いるようだ。
そう考えてみると、パリに博士論文を書きに来ているフランス文学などの日本人研究者の中には、映画ファンが驚くほど多い。もともと「映画」は彼らの研究テーマに引きつけて語ることの出来る分野であるし、二つのシネマテークをはじめとして、パリでは毎日のように必ずどこかで興味深い映画が上映されているのだから、それらに通ううちいつしか映画好きになってしまう、といったところだろうか。

 しかし、この映画文化を支えようとする公の機関の努力は、なにも観客にだけ向けられているのではない。映画を作りたいと願う者にとっても、数々の補助金制度があるし、シナリオの公募、その書き方の指導、俳優やスタッフ探しの場を提供してくれるプロジェクトも多い。それらは、映画発祥の地の義務として、映画を廃れさせまいという、断固とした意思の表れとも思える。
上質の映画にこだわって上映を続ける個性的な老舗映画館、それらを容易には閉館させようとしない映画通の観客、そして映画熱を高めるべく尽力する公的機関―この三者が一体となっている点において、パリはやはり映画(こちらの表現で言う「第7芸術」、すなわち音楽、詩、ダンスの時間芸術、建築、彫刻、絵画の空間芸術をつなぐ、新しい、第7番目の芸術)の天国なのだ、と断言することになる。